コラム「復・建|日刊紙 日刊建設タイムズ

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2015/07/07

七夕の日襲った千葉空襲

▼70年前のきょう7月7日、千葉市はいわゆる「七夕空襲」に見舞われた。数度にわたる千葉空襲の中でも最大の被害を出したこの空襲で、中心市街地は火の海と化した。逃げるしかすべのない非力な一般市民を標的とした空襲の理不尽さを改めて思わずにはいられない
▼「七夕空襲」は1945年の同日未明の午前1時39分から3時5分までの攻撃で、その被害は死傷者1204人、被災戸数8489戸、被災面積205haに及んだ
▼被害を受けた主な施設は、千葉地方裁判所、千葉郵便局、千葉鉄道管理部、省線千葉駅、同本千葉駅、京成千葉駅などのほか、鉄道第一聯隊(椿森)、気球聯隊・歩兵学校(作草部町)、千葉陸軍高射学校(小仲台)などの軍事施設。軍事施設のみならず広範に破壊し、損害を与えようとする無差別攻撃だった
▼当時の米軍資料によれば、テニアン西飛行場を飛び立った129機のB29が889・5tの焼夷弾を投下。搭乗員の証言では、目標地域で点々と火災が起こり、煙が2万5000フィートまで上昇。偵察写真からは、千葉市街地の43・4%(0・86平方マイル)を破壊したとある
▼米軍のB29による本土空襲は45年3月以降、東京・大阪・名古屋・横浜などの主要都市から始まり、次第に地方都市へと及んだ。千葉市を目標とした空襲は7月7日(七夕空襲)のほか6月10日にもあり、この2度の空襲で中心市街地の約7割にあたる231haが焼野原となり、死傷者1595人、被災戸数8904戸、被災者4万1212人に上る被害を出した
▼溶けて固まった銅貨や焼け焦げた懐中時計など、当時の空襲資料を見るだけでも、その破壊力の凄まじさを思い知らされる。実際に空襲を体験した方々の恐怖たるや、いかばかりだったろう
▼体験者の証言には、「病院には大勢の重傷者、外の倉庫には死体が山と積まれ、次々とトラックで運ばれてきた」とある。平和ボケした頭には想像もつかないが、せめても悲惨な戦争を越えて今があることだけは忘れまいと思う。

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