コラム「復・建|日刊紙 日刊建設タイムズ

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2016/05/24

「修善寺の大患」に見る人生の転機

▼人にはそれぞれ転機がある。劇的に訪れる場合もあれば、ささいなことがきっかけになることもあるだろう。文豪・夏目漱石にも幾度かの転機があったが、まず思い浮かぶのは、いわゆる「修善寺の大患」だ。この健康上の一大事が漱石の私生活や創作活動の面で大きな分岐点になったことはよく知られる
▼1910(明治43)年8月24日、漱石は保養先の伊豆・修善寺で胃潰瘍の悪化から喀血し、人事不省に陥った。30分ほど脈を失い危篤状態になった漱石は、このときのことを、その著書『思い出す事など』で「三十分の長い間死んでいた」と書いている。この体験によって、漱石は以後、持続的に生死の境を彷徨した不思議について考え続けたと言われる
▼ただし漱石自身は、寝返りを打とうとして大喀血し、つぎに金だらいに鮮血を見た瞬間との間に意識の連続があり、「一本の髪毛を挟む余地のないまでに、自覚が働いて来た」と信じていた。あとで鏡子夫人から30分間の人事不省という事実を知らされて「全く驚いた」と記している
▼筆者も最近、修善寺を訪れる機会があった。漱石が当時療養していた修善寺温泉・菊屋別館(現在の菊屋)の裏塀には、「修善寺の大患」について書かれた案内板が設置されていた。そこには、修善寺で最初に診察した地元の医師、野田洪哉が事の重大さに驚き、東京朝日新聞に急報したとある
▼彼の迅速な判断により、24日の大喀血の際には東京から長与胃腸病院の森成麟造医師や朝日新聞社の坂元雪鳥、そして鏡子夫人がかけつけ、必死の看病にあたった。その結果、漱石はどうにか一命をとりとめた
▼『思い出す事など』の最後では、病み上がりの漱石が、鏡に映った自分の顔に、若き日に亡くした兄の面影を重ね、また、修善寺から東京に戻るとき自分が寝台で運ばれる心境を「第二の葬式」という言葉で表している。ここに、最晩年の漱石が文学や人生の理想とした「則天去私」へとつながる思想の萌芽を見るのは、おそらく筆者だけではないだろう。

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