コラム「復・建|日刊紙 日刊建設タイムズ

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2017/10/17

小諸義塾に思う教育の在り方

▼子どもの将来の理想像を「末は博士か大臣か」と言ったのは、いつ頃までだったか。世間的に博士や大臣が最高の栄達と考えられていたゆえの言葉だが、博士はともかく大臣のほうは、昨今の度重なる失言も手伝って、その権威が失墜ぎみだ。今の子どもに「博士か大臣」などと言っても通用しない
▼一説には、頭が良ければ博士(学者)、そうでなければ愛嬌や器量が大切な政治家になれという意味だったと言われる。明治から昭和の高度成長期までは、教育方針自体にこうした英雄待望論的な要素が強く、高邁な理念を掲げて高度な教育を実践する学び舎も少なくなかった
▼たとえば1893年から1906年まで現在の長野県小諸市にあった私塾「小諸義塾」でも、英雄・傑士を目指した教育が実践された。塾長の大村熊二塾長は「俊才出でよ、傑士生れよ、宰相大臣何かあらん」と弁舌。生徒らも「男児の本懐何処にありやと、奮い立って明日の大臣を夢見る位に魅せられた」と語っている
▼最盛期には内村鑑三らが講演会を開き、島崎藤村が英語と国語の教鞭をとるという充実ぶり。柳田国男や有島生馬ら著名人も訪れた。入学生は多くても、入学後に大半がふるい落とされ、入学生約70人のうち3年目にはわずか8人しか残らなかったこともある
▼その教育は高度でありながらユニークで、検定済みの教科書ではなく、国語では徒然草や枕草子、漢学では十八史略や四書八大家文などを使った。卒業生からは文部大臣や法学博士、大学総長、評論家らを多数輩出した
▼塾生の増加とともに施設は拡張され、寄付金も増額。学習科目の増加とともに修業年限も4年まで延長された。一方で、塾の法人化により財源確保の基金募集に失敗し、日露戦争の勃発など時代の諸情勢で補助金も削減され、わずか13年で閉塾を余儀なくされた
▼義塾のたどった運命もまた、高邁な理想が現実の前で崩れ去った一例と言えるだろう。教育理念の変化とは別の本質的な部分で、理想の教育とは何かを考えさせられる。

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