コラム「復・建|日刊紙 日刊建設タイムズ

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2018/01/16

世界遺産「韮山反射炉」築造の立役者

▼今年は明治維新から150年に当たる節目だが、そんな年明け早々、世界遺産「明治日本の産業革命遺産」の構成資産である韮山反射炉(静岡県伊豆の国市)を見学する機会があった。真冬の青空に屹立する連双2基4炉の反射炉を目にして、歴史の重みに圧倒された。築造時と変わらぬ原形をとどめているのはほとんど奇跡のようだ
▼それもそのはず、この反射炉は稼働を終えてから150年以上にわたり、地域住民の理解や協力のもとに、幾度となく補修・修理工事が重ねられてきた。1908年、57年、85~89年などに大規模な補修や修理が行われ、北伊豆地震(30年)以降は耐震性を考慮した補強も施されている
▼反射炉は金属を溶かして大砲などを鋳造するための溶解炉で、内部の天井がドーム状になった炉体部とレンガ積みの高い煙突からなる。石炭などを燃料として発生させた熱や炎を炉内の天井で反射し、一点に集中させることにより、銃鉄を溶かすことが可能な千数百度の高温を実現した
▼長きにわたる保存事業の背景には、韮山反射炉の生みの親である江川英龍(坦庵)への信望がある。地元では今も親しみを込めて「たんなんさん」と呼ばれる英龍は、幕府の韮山代官として、自ら率先して質素倹約に努め、村役人への説諭と窮民の救済にあたったほか、困窮する村への長期低金利貸付金の設定など金融対策も積極的に導入。これらの功績で人々は英龍に心服し、「世直江川大明神」とたたえた
▼英龍は海防政策の必要性についても早くから幕府に進言。反射炉の研究も1842年頃から独自に進め、ペリー来航を受けて53年に築造の命を受けると、ただちに必要な資材と職人をそろえ、築造に取り掛かった
▼英龍は反射炉の完成を見ることなくこの世を去るが、まさにこの大型プロジェクトの立役者と言える。反射炉には松杭の基礎事業など当時の土木技術のレベルの高さを示すものが少なくない。後世の保存事業も含めて、今に残るその威容には英龍の精神が確実に脈打っている。

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