コラム「復・建|日刊紙 日刊建設タイムズ

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2019/12/18

追われた故郷への哀惜

▼年末年始は帰省の季節。年も押し迫ると、帰省を楽しみにされている方も多いと思う。帰れるふるさとがあればありがたいが、ふるさとを思いながらも、その土を踏めずにいるつらさはいかほどか
▼夭折の歌人・石川啄木(1886~1912)は、21歳の春に故郷・岩手県の渋民村(現・盛岡市)を離れた後、26歳で亡くなるまで二度と渋民の土を踏むことはなかった
▼それでもふるさとへの思いは尽きることがなく、多くの歌を詠んだ。第一歌集「一握の砂」には、渋民と盛岡を回想した歌が全551首中101首も収められている。〈かにかくに渋民村は恋しかり おもひでの山 おもひでの川〉〈ふるさとの山に向ひて 言うことなし ふるさとの山はありがたきかな〉
▼とはいえ、啄木のふるさとへの思いには複雑なものがあった。故郷を離れるときには、住職だった父が寺を追われ、小学校教員の啄木自身も免職され、一家離散の状況だった。故郷を出る悲しみを〈石もて追はるるごとく ふるさとを出でしかなしみ 消ゆる時なし〉と歌った
▼北の大地を転々としたのち、22歳の春に妻子を残して上京。小説家としての大望を胸に抱いての単身上京だったが、待っていたのはまたも挫折。望郷の念の背景には、都市生活に疲れた現実が見て取れる▼皮肉にも、10代から親しんだ歌が噴出したのは、まさに東京でどん底にあった1908年だった。6月23日には55首、翌24日には50首、25日には141首に及ぶ
▼上京した妻や母と共に結核を患い、東京・小石川への転居を余儀なくされたのは11年8月。病苦や借金苦、家庭不和などを抱えながら臨終までの8か月間、思いの丈を歌にぶつけ、苦悩の中で創作活動を続けた。啄木自ら「小生の遊戯なり」と語ったように、歌は仕事というより心の叫びだった
▼追われるように故郷を出た啄木だが、故郷への哀惜の念は終生絶えることがなかった。年末の帰省時期を迎えるにあたり、啄木の心に思いを馳せながら、自らの〝ふるさと〟とも向き合ってみたい。

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