コラム「復・建|日刊紙 日刊建設タイムズ

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2021/06/08

「お札の顔」の不思議な縁

▼先日の小欄で取り上げた聖徳太子の1400年遠忌に関する話の中で、太子が、日本紙幣では最多の7種類(戦前2回、戦後5回)で肖像が使われた「お札の顔」であることに触れた。とくに1万円札は、1984年に福沢諭吉となるまで、長らく太子の肖像が紙幣の「顔」としてお馴染みだった
▼2024年上半期には紙幣が一新されることが決まっているが、1万円札は実に40年ぶりの刷新となる。新1万円札の図柄となる肖像は、渋沢栄一(1840~1931)。それまで少々地味な印象がった渋沢だが、今年のNHK大河ドラマの主人公となるなど一躍脚光を浴びる存在となった
▼ところで、すでに「お札の顔」として名高い聖徳太子と、新1万円札の「顔」となる実業家の渋沢とは意外なつながりがあると知った
▼太子の1400年遠忌にあたる今年から遡ること100年前の、大正時代に行われた1300年遠忌では、何と渋沢が法要の実現に尽力していた
▼法隆寺は明治初期、政府の上地令で領地を没収され、寺を維持するのにも苦労していた。宝物を皇室に献納するなどして、下賜(かし)された1万円で伽藍や寺宝を守ってきた経緯がある。そんな折に立ち上がったのが渋沢で、法要3年前の1918(大正7)年に奉賛会を発足させ、寄付などにより国を挙げての法要を実現したという
▼太子は江戸時代、日本古来の神道を軽んじ、外来の仏教を重んじたと国学者や儒学者から非難され、渋沢も当初は同じような考えでいた。しかしその後、親交のある歴史学者や美術行政家などに説得され、太子を慕うようになったと言われる
▼100年前の1300年遠忌には様々な困難が伴ったが、今年の1400年遠忌でもコロナ禍という困難のもとで法要が営まれた。いずれにせよ、法隆寺が私たちにとってより一層特別な寺になったのは、1300年遠忌がきっかけだったことは間違いない。渋沢が新1万円札の「顔」となることを考え合わせると、太子との不思議な縁を感じずにはいられない。

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