コラム「復・建|日刊紙 日刊建設タイムズ

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2018/11/23

新聞の信頼高めた楚人冠

▼手賀沼のほとりに位置する本県・我孫子市は、かつて白樺派の拠点となるなど多くの文人墨客が別荘や居を構えた文化的風土で知られる。明治末期から昭和前期にかけて東京朝日新聞(現・朝日新聞)の記者として活躍したジャーナリストの村杉楚人冠(そじんかん)もまた、この地に定住し、理想の郊外生活を実現した
▼その母屋は記念館として整備され、現在、関係資料などを展示・公開している。新聞の信頼性を高めるために様々な仕組みを導入した楚人冠の先見性に焦点を当てた企画展が開かれ、筆者もこの夏、足を運んだ
▼楚人冠の業績は実に幅広い。新聞の組織改革では、1911年に記事を分類整理して保存する「索引部」(後に調査部に改称)、22年には記事の正確性を審査する「記事審査部」を、日本の新聞社で初めて設けた。19年には、縮小した新聞の全ページを掲載した縮刷版も初めて発行した
▼これらは現在の新聞社に欠かせないもので、私たちが過去の新聞記事を調べられる原点は、その調査部と縮刷版で記事保存の仕組みを取り入れた楚人冠の功績と言っても過言ではない
▼読みやすい文章に独特の皮肉とユーモアをちりばめた随筆やコラムも当時人気を博し、戦後の文筆家にも影響を与えた。また、講師を務めた大学での講義をもとにまとめた『最新新聞紙学』は新聞記者の教科書と称され、現代にも通じる内容を持つ
▼このほか、南極探検の後援など新聞社の文化事業でも活躍。我孫子に移り住んでからは、手賀沼の景観保護活動など当地の発展にも尽力した
▼楚人冠は我孫子の居宅を自ら白馬城と名付けたが、これは古代中国の思想「白馬は馬にあらず」からとられたもので、「こじつける」という意味があり、楚人冠が自分のつむじ曲がりの性格を表すために命名した。楚人冠の筆名も『史記』にある「楚人(そひと)は沐猴(もっこう)にして冠するのみ」(楚の人は猿が冠を被っただけ)からとられている
▼新聞人としての業績や姿勢に触れて襟を正すと同時に、その人間臭さにもくすりとさせられる。

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