コラム「復・建|日刊紙 日刊建設タイムズ

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2024/05/22

早世の夫妻、奇跡の画業

▼画家にして夫婦。しかもパリで学び、独自の作風を確立したものの、20代で相次ぎ早世。長らく評価の機会を逸していたが、近年、ともに評価が高まっているという。まさに〝奇跡〟の歩みというほかはない
▼板倉鼎(1901~29)、須美子(1908~34)夫妻である。夫妻は没後、その存在を広く知られないまま、近年まで時間の堆積の下に埋もれていたが、今回、千葉市美術館で2人の画業を総覧する展観が開かれている(6月16日まで)
▼鼎は、幼少から松戸市に過ごし、県立千葉中学校(現・県立千葉高校)で洋画家の堀江正章に学ぶなど、本県とのゆかりも深い。千葉中在学中には、千葉県庁のドーム型の屋根を臨む油彩画「千葉町」などを残している
▼19年には東京美術学校西洋画科に進み、在学中に帝展への入選を果たすなど頭角を現し、25年にはロシア文学者・昇曙夢の長女須美子と結婚。翌年、ともにハワイ経由でパリに留学した。須美子も鼎の影響で27年頃から油彩画を手掛けるようになった
▼パリでは斎藤豊作や岡鹿之助と親しみ、アカデミー・ランソンでロジェ・ビシエールに学ぶなど、エコール・ド・パリの全盛期を過ごした。27年にはサロン・ドートンヌに初入選するなど、簡潔な形と鮮烈な色彩による構成に新境地を開いた
▼その後も、写実的なスタイルを脱して目覚ましい変貌を遂げ、キュービズムの影響などを受けた独自の作風に至った。とくに、須美子を描いた肖像画や窓際の静物画などの画業には目を見張るものがある
▼一方の須美子も、ほどなくサロン・ドートンヌに初入選するなど、当時の評判は鼎より高かったとも言われる。「ベル・ホノルル」シリーズは、幻想的な詩情をたたえた明朗な造形で、独自の魅力を備えている
▼しかし夫妻の芸術の日々は長く続かず、鼎は29年の秋、突然の病を得て28歳で客死。帰国した須美子も5年後に25歳で病没する。オリジナルを目指し道半ばで倒れた2人の作品は、苦悩や葛藤と隣り合わせの多幸感に満ちている。

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