コラム「復・建|日刊紙 日刊建設タイムズ

  1. ホーム
  2. コラム「復・建」

2025/08/19

終戦導いた鈴木貫太郎

▼戦後80年の今夏は、例年にも増して戦争関係の記事や番組が目立った。本県にゆかりの深い終戦当時の首相・鈴木貫太郎(1868~1948)についても、終戦へ導いたその功績が語られていた
▼第2次世界大戦が日本にとって絶望的な状況になっていた1945年、鈴木は小磯国昭首相の後を受け、国家存亡に関わる難局のかじ取りを任された。当時枢密院議長を務めていた鈴木に、昭和天皇は首相就任を求めたが、当初、高齢であることや、政治には素人であることを理由に固辞した
▼「この国家危急の重大時機に際して、もう他に人はない。頼むからどうか枉(ま)げて承知して貰いたい」という天皇の言葉に、鈴木は終戦を目指す「陛下の思召(おぼしめし)」を感じ取り、首相の任を引き受けた。しかし組閣後も徹底抗戦論者らを無視できず、戦争終結の難しさを抱え続けた
▼8月に入ると戦況はさらに悪化し、6日に広島、9日に長崎へ原爆が投下され、8日にはソ連が日ソ中立条約を破って参戦してきた。その後も軍部の反発による紛糾は続いたが、最終的に14日の御前会議で天皇の決断(聖断)により「ポツダム宣言」の受諾が決まり、第2次世界大戦は日本の降伏をもって終わりを告げた
▼終戦に向けた鈴木の動きには賛否両論あるものの、鈴木でなければあのタイミングで天皇の聖断を活用できなかったとの評価は根強い
▼鈴木は終戦の日の夜、ラジオ放送で新しい国造りについて語り、「自治・創造・勤労の生活新精神の涵養」や「科学技術の振興」を訴えた。その後、首相職を辞し、47年の日本国憲法施行の翌年、80歳で生涯を閉じた。息を引き取る際には「永遠の平和」と2度つぶやいたと伝えられる
▼鈴木は幼少期や晩年を東葛飾郡関宿町(現・野田市)で過ごした。同市にある記念館は現在、台風被害で休館中だが、再建を目指している。ここへきて、2030年とされていた開館時期が1年前倒しされ、29年度となる方針も決まった。鈴木の多大な功績を伝える施設として早期開館を望みたい。

会員様ログイン

お知らせ一覧へ