2025/11/27
多難を極めた印旛沼干拓
▼印旛沼といえば、千葉県民には馴染み深いが、その歴史はあまり知られていないのではないか。古くから一帯は水害に悩まされ、寛永年間以降は特に頻発するようになり、幕府による干拓事業が何度も計画されたものの、なかなか成功しなかった
▼その足跡をみると、失敗の連続でもあり、洪水や噴火などで工事が中断に追い込まれることも多かった。本格的な干拓工事はぐっと下って昭和21(1946)年で、その後28年をかけて印旛放水路が完成し、約900haの水田が開かれた
▼印旛沼の形状も現在とは大きく異なり、1000年ほど前までは茨城県の霞ヶ浦、北浦、牛久沼、本県の手賀沼や水郷一帯とつながった「香取の海」と呼ばれる水域の一角にすぎなかった
▼それが土砂等の堆積や海退によって徐々に縮小し、陸化から取り残された湖沼が印旛沼や手賀沼となった。さらに、徳川幕府が治水と舟運のために行った「利根川東遷事業」によっても、印旛沼は大きく変化した
▼天明2(1782)年には老中・田沼意次が開疎計画を実施し、工事が途中まで進んだが、天明の洪水により壊滅。田沼の失脚もあって挫折した。このあたりの事情は、今年のNHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」でも触れられていた
▼田沼以降も水野忠邦による三度の開疎工事が行われたが、難工事や水野の失脚などにより工事は中止された
▼その後の印旛沼開発は、新田開発から利水が重要な目的となり、最終的に干拓や疎水路が完成したのは昭和44(1969)年だった▼当時の高度経済成長期には、都市への人口集中による過密問題が深刻化し、首都圏では次々と住宅団地が造成された。印旛沼周辺のなだらかな台地にも、昭和30(1955)年に全国初の住宅団地として八千代台団地が建設され、以後、千葉ニュータウン、成田ニュータウンなど多くの住宅団地が整備された
▼穏やかな表情を見せる今日の印旛沼を眺めるにつけ、先人たちの苦難の積み重ねを忘れるわけにはいかない。











